コンピュータと言語学者・服部四郎先生との縁について

 私の、コンピュータとの最初の関りは、1958年11月です。

 当時の私は物凄く病弱でしたが、新進気鋭の詩人として、周囲から随分と期待されて居ました。
 この縁で、 親戚以上のお付き合いをさせて貰って居た長野県松本市浅間温泉在住の詩人・高橋玄一郎氏の朋友で、詩人・西洋文学者、西脇順三郎先生とも親しくさせて頂き、 更に、西脇先生の紹介で、 言語学者・服部四郎先生とも大変親しくさせて頂きました。

 此の、服部先生の紹介で、「キーパンチャー」と言う職業が女性の職業の花形であった時代の大型電子計算機を、私も「酷使」できるチャンスを得ました。

 「他言語に翻訳不可能な日本語の詩を制作する」と言う命題を自らに課して、 日本語を「言語学的」「音韻学的」に、根底から見直し、 言わば、日本語のルーツをも探ることに拠って、

『もしも、日本語が、世界中のどの言語とも孤立しているならば、その孤立している本質だけを、詩の言葉として活用すれば、 「他言語に翻訳不可能な日本語の詩」が出来る。』

と思い付いたのです。
 これにより、日本人として、世界に貢献できる「何か」を探ろうとしたのです。

 此の為には、まず「漢字造語を含めた外来語」を全て除外する必要が有りました。

 此処で、「鬼畜米英」の下に、カタカナ語を排除し、カレーライスを「カラミイリシルカケメシ(辛味入り汁掛け飯)」と言い替えながらも、 侵略進行中の、中国からの「外来語」である、漢字で構成される鉄道を「クロガネノミチ(鉄の道)」とは言わなかった日本軍の「中途半端な思想」よりも、 更に徹底した「民族浄化策」ならぬ「言語浄化策」を試みた訳です。

 此の為に、日本語の「単語」を全て再検討し、篩い分けする必要が有ったのです。
 これに役立った機械が、大型電算機だったと云う訳です。
 これが、服部氏から受けた最大の恩恵です。

 この結果、「オノマトペ(擬音語・擬態語)」が、世界中の、如何なる言語よりも、遥かに多く含まれているのが、 「開音節言語」である事と共に、 「ヤマトコトバ」の最大の特徴であることが判りました。

 この二つの特徴は、 太平洋に広く展開するポリネシア語族(ニュージーランド、イースター島、ハワイを頂点とする広大な地域の原住民)の言語の特徴と一致して居ます。
 この特徴認識が正しければ、 ユーラシア大陸から多数の移住者が来る前の日本列島は、ポリネシアの一部であったかも知れません。

 トルコ語は、文法的にトルコ系(広義では、ウラル・アルタイ系)と言われ、日本語の遠い親戚です。
しかしながら、トルコ人の代表的な顔つきはアラブ(イスラム)系+コーカサス(白人)系であり、日本人と全く似ていません。 妙です。
 ですが、これを、トルコ系言語を話す土着人が、権力的には、アラブ(イスラム)+コーカサス(白人)系に負けて、顔つき体つきは、すっかり変わってしまったものの、言語的には勝ち残ったと考えれば謎が解けます。
 同様のことが、ハンガリア(マジャール)とフィンランド(スオミ)でも起きています。

 此の様な考え方を推し進めれば、日本人の起源は、アフリカで誕生した私たち現代人の祖先の内、 アラビア半島⇒インド⇒マレー半島⇒インドネシア⇒パプアニューギニア⇒メラネシアから、ポリネシアまで拡散した一部が、広い太平洋の何処かで遭難したものの、 運よく、北赤道海流⇒黒潮に乗って八重山諸島⇒沖縄本島⇒奄美大島⇒九州⇒本州へと渡って来たか、あるいは、マレー半島辺りで分派した集団が、 氷河期には陸地になる南シナ海を横切って、ボルネオ⇒フィリピン辺りから黒潮に乗って、沖縄本島⇒本州南岸で、一部を、私達の遠い祖先として残し、主流は、黒潮⇒北太平洋海流⇒カリフォルニア海流に乗り、ポリネシア全域に拡散して行ったのかは不明ですが、昔話を精査して行くと、ユーラシア大陸起源では説明付かない昔話なども有る事から、信憑性を持ちます。
 その後、音韻学的にポリネシア言語族だった土着民が、権力闘争に敗れて、樺太・北海道経由で南下して来た(=南下説)、又は、台湾、 琉球列島経由で北上して来た(=北上説)圧倒的多数の縄文人に負けて、顔つき体つきが、すっかり変わってしまったものの、 言語的には(少なくとも、音韻学的には)勝ち残って、更に、権力闘争及び文法闘争で、朝鮮半島経由で南下して来たウラル・アルタイ系の弥生人に、 南方(熊襲:南九州・奄美・沖縄)及び北方(蝦夷:北部東北・北海道)以外では敗れ果てて、おペチャな顔つきに変わってしまったものの、 音韻学的には、此処でも勝ち残ったと言えます。
 つまり、カタカナ語及び漢字語を排除した古代日本語(ヤマトコトバ)は、文法はウラル・アルタイ系、音韻はポリネシア系として、 現代日本語にまで繋がっていると思われるのです。

 現在、この私の推測の正当性を証明するものとして、ミトコンドリアDNA(mdDNA)の地球規模的な追跡調査によって、 朝鮮半島人と日本人とは、一部で明らかに、ミトコンドリアDNAタイプの構成比率が異なっている知られて居ます。
 此の明らかに構成比率が異なるミトコンドリアDNAタイプと、ポリネシアのミトコンドリアDNAタイプとに因果関係が見付かれば、 「−(長音)」「っ(詰音)」「ん(跳音)」を一音節(一拍・一文字)と数える音韻学的に極めて特徴的な日本語の性質に就いても、 日本の地で、民族学的に、そして、言語学的に、「突然変異」が起きたと云う事だけは、説明が確定すると信じて居ます。

 これが、私が成し得た、服部四郎先生への最大の恩返しです。

 これとともに重要なのは、大本の(唐・宋時代の)中国語の発音に存在しなかった為に、 当時の(飛鳥・白鳳時代の)日本語に存在して居ても書き分け様が無くて、これが原因で、「万葉集」「古事記」「日本書紀」の 「イ列」「エ列」「オ列」の書き分けを根拠にした、「飛鳥・白鳳時代の日本語8母音説」が、5母音に固執する(どちらかと言うと、右翼的な)学者から、非科学的に揶揄されている状況を改善する事で、私が、服部先生経由で、日本国語学会に貢献できた次の知見です。

 貢献できたと言い得る理由は、日本各地の方言に、痕跡を幾つも発見できたからです。
此の「イ列」「エ列」「オ列」の書き分けは、平安時代には完全に無くなり、弘法大師の「イロハ詩」には、既に「ヤ行」の「イェ」が無く、 現代では、元が「ワ行」の「ヰ」「ヱ」「ヲ」音素を、その通り正しく発音出来る人は、方言でも稀有であり、その道の関係者以外では絶対に無理です。

 言語は、此の様に、「経年変化」するのです。

 例えば、「得る」の「エ」が元来「ア行」の「エ」であることは、文語が「ユ」では無く「ウ」である事で証明されます。
 これに対して、「消える」「増える」の「エ」が、古くは「イェ」であることは、文語が「消ゆ」「増ゆ」である事で証明されます。
 そして、此の「エ」「イェ」は、万葉仮名では該当する漢字が無くて書き分けられて居なくても、正しくは 「」「いぇ」です。
 これがマーカー付きのひらがなであるのは現代ではなくなった 開口の「え」列母音である事を示して居ます。

 「三(サン)」が、古くは「サム」である事は、「三位一体(サンミイッタイ)」から類推できますが、 「林(リン)」が、古くは「リム」である事は、現代日本語や現代中国語では証明できません。
 しかし、朝鮮語(韓国語・ハングル)の「イム」で証明できます。
 「金(キン・コン)」が、古くは「ム」であることは、万葉仮名と朝鮮語(韓国語・ハングル)とで証明できます。
 「」は、現代ではなくなった円唇前舌か平唇中舌の「い」列母音であることを示しています。

 「日の本」の「ヒ」は常に「ヒ」ですが、「火の元」の「ヒ」は、古代では「」です。
 「火」が「」であることは、「炎(火の穂の意)」「火屋(火の屋根の意)」から証明できます。
 資料が乏しくて、「卑弥呼」の「ヒ」が「日神子」なのか「火巫女」なのかは定かでは有りませんが、これが確定できれば、古代日本史の意味が変わる可能性があります。

 ゾロアスター教が仏教伝来以前に、大陸から日本に渡来していることは 奈良・東大寺の「お水とり」で連想できますが、 卑弥呼が「火の巫女」ならば、「日の神子」とは、大違いの歴史判断に繋がります。

 「火」が「炎(火の穂)」から「」である事が証明できる事に拠って、 「木」「黄」は、「梢(木の末の意)」「黄金(黄色の金の意)」から「」である事が証明されます。
 此の「梢」「黄金」と同じ万葉仮名を使っているところから、「心」の「コ」は、「」であり、 此の様な知識を「データベース化」する事に拠って、「オ」列母音と「現代ではなくなった円唇中舌か平唇奥舌のお列母音」とは、 単語内では決して同居しない事が判って来たところから 「心」の「ロ」は「」である事が証明されると云う事で、 若輩ながら、私の「芸術的主観」と「科学的客観」は、国語学、民俗学に於いても、それなりの貢献が出来ました。

 此の様なデータベースを、「現代語・古代語」同時通訳システム」として具現化できれば、 そして、これを、私独自の情報セキュリティ方式の 「特許ITSS」流に言えば、これは、一種の 「可聴化技術」に他なりません。

 既に45年以上も前に、私は、此の様な翻訳システムのプロセスを、夢に終わらせるのではなく、実現に向けて実践開始して居たのです。

 万葉仮名文を入力すれば、現代語が、音声あるいは文章・文字列となって返って来る。

これを、真に実現するには、データベースの更なる拡張と、此の様な考えを学術・事業へ持って行く為には、 「芸術家としての詩人」のタマゴとして、何を成すべきかと考え、格調高い「主観詩」を書いて居た道を修正し、これ以降、抽象絵画ならぬ、抽象詩(抽象的な俳句、短歌、詩)を創作し始めました。

 1959年5月の事です。 此の縁で「現代詩手帖」新人賞、「詩学」新人賞を受けて居ます。

 言語学者・服部四郎先生に、此の受賞を報告した所、『確かに! 元々、音楽は抽象であり、セザンヌが近代絵画の道を拓き、 ブラックやピカソが立体派を推し進めた結果が、カンディンスキー、クレー、モンドリアンの活動に由って、抽象絵画の扉が拓いた様に、抽象文学と云うジャンルが、 存在する事で、短歌、俳句を超えた抽象文学と云うジャンルも、未来の文化発展の為に、存在すべき知見だね!』と、褒めて頂きました。

 

 それから40年も経って、(文系の)美術家いわた・きよしの基盤上に、理系「拓学」を繰り返した結果、例えば、 「平角螺旋の可視化処理手法」と云った、 新規の「解析可視化処理技術知見・知財」を数多く育み、 究極の情報セキュリティー「ITSS」が開花したと云う訳です。

 特許で云う「要約」が、美術で云う「抽象」だと会得した事が、樹幹(=基幹=基盤)特許取得の道を拓いたのです。

 

初稿:2002年1月6日。 最終改訂:2009年11月1日。

 
 

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